2009年01月06日

大東亜戦争はアジアを植民地支配から解放した

bdaa9f28田母神前航空幕僚長の論文、「日本は侵略国家であったのか」の主張にあるように、アジア諸国は大東亜戦争を戦った日本に対する評価は高い。それも直接、日本軍と接した人たちの声は真実を語る。日本が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣だ。
アジア諸国とは歴史を改ざんする中国や朝鮮のことではない。

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インドネシア独立を支援した皇軍 平井修一
岩間弘氏が著書「大東亜解放戦争」のなかでインドネシア訪問記をつづっている。「いい話」を独占しては罰が当たる。大いに広めるべきだろうと、長くなるが以下、転載する。
平成11年8月13日、私は中島慎三郎氏(アセアンセンター)が案内役で中村粲教授が代表というインドネシア独立記念日に参加することを主目的とする旅に縁あって参加させていただいた・・・

我々12名は正式に独立式典に招待されていて、全員の椅子がテントの中に用意されていたのであった。これは大変光栄なことで、インドネシアの人々がいかに親日的であるか、何よりも大東亜戦争によって、日本がオランダ軍を追放したこと、また、その後の独立戦争のときに、残留日本軍人2000人の協力によって独立戦争に勝つことができたことを深く感謝している証拠であった。

式典は数千人の人々の熱気の中に進められた。54年前の独立宣言を再現する場面では、扮するところのスカルノが「ムルディカ!」(独立!)と叫ぶと参列者全員が「ムルディカ!」と叫び、「ムルディカ!」「ムルディカ!」と繰り返されて式典は最高潮に達した。

盛大な式典が終わると、当時の義勇兵PETA(ペタ)の格好をして、ほとんど日本兵を真似ているので、日本兵そっくりさんの戦闘帽に、軍服、脚絆、軍刀という姿で、我々日本人に寄って来て握手、握手で写真を一緒にとって喜んでくれた・・・

カリバタの英雄墓地について述べてみたい・・・終戦後も日本に帰らずにインドネシアの独立戦争に参加し、戦争体験のまったくないインドネシアの青年に戦闘の方法、武器の取扱と修理などを教え、戦闘のときは先頭に立ったために戦死した方々の墓が17柱。日本名をどうしても使わぬと頑張り、インドネシア人になりきって戦死した兵士を含めると、この墓地では70柱という・・・

残留兵は約2000人で、その中の半分が戦死し、独立を達成したあと何百人かが帰国し、現在(平成11年)の生存者は約40人で、いずれも75歳以上である・・・

西のスマトラ島にあるブキチンギの「日本人の穴」について語らなければならない・・・実に不思議なめぐり合わせによって・・・戦時中、第25軍直属の貨物廠で人夫頭だったライスさんとめぐり合ったのである・・・その時ライスさんが話してくれたのは大体次の様なことだった・・・

「日本軍がシンガポールを陥落させると、オランダ人は何百年も威張っていたのに、強風を食らった木の葉のように飛び去った。オランダ人も驚いただろうが、我々も日本軍のものすごい威力に驚いた」

「ジャワに上陸した日本軍は9日間でオランダ軍を粉砕した。我々は350年間に何度もオランダ人と戦ったが追放することはできなかった。日本軍が大東亜戦争を敢行しなかったならインドネシアは今でもオランダの植民地であったことは間違いない」(引用終わり) ●杜父魚文庫ブログ 

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大東亜戦争中のタイと日本11

インパール作戦に参加した日本軍は9万2千人と言われ、そのうち生き残ったのが1万2千人だけだったと言われています。日本軍にとって大失敗だったこの作戦ですが、インドから見ると全く意義が違ってきます。
インド人の中には、インパール作戦で日本軍がインド国民軍と一緒になって戦ってくれたことを感謝し、あの戦いが、インド独立の士気を高めた、と言う人もいます。また、インパール周辺の住民達も、日本軍の勇敢さ、そして軍律の厳しさを、敬意を込めて見つめていたそうです。

しかしながら、日本兵の悲惨さは言語を絶するものだったことも事実です。敗退していった日本兵は戦友達の遺体がいたるところにあるビルマの山道を戻り、タイに入っていきました。
ケマピューというところでサルウィン河をわたるとタイ領に入り、最初にある村がクンユアムでした。 ●太郎の勉強ブログ

Posted by a2z_blog at 18:38│Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!近思録 

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